札幌高等裁判所 昭和31年(う)574号 判決 1963年12月20日
本籍 芦別市字富岡一九六番地
住居 同市本町一、二七九番地みずほ団地九〇号
無職 地主照
大正九年一二月二〇日生
右の者に対する爆発物取締罰則違反、電汽車往来危険、火薬類取締法違反、窃盗各被告事件について、昭和三一年七月一六日、札幌地方裁判所岩見沢支部が宣告した判決に対し、検察官検事堂ノ本武ならびに被告人から各控訴の申立があつたので、当裁判所は、検察官検事小暮洋吉出席、取調べのうえ、左のとおり判決する。
主文
検察官の本件控訴を棄却する。
原判決中被告人に関する有罪部分を破棄する。
本件公訴事実中火薬類取締法違反の点について被告人は無罪。
理由
検察官控訴の趣意は、札幌地方検察庁検事正検事藤井勝三作成名義の控訴趣意書(第三点を除く)ならびに札幌高等検察庁検察官検事寺崎真人作成名義の控訴趣意補充書記載のとおりであり、これに対する答弁は、弁護人杉之原舜一提出の控訴趣意書中答弁書に代るものとされた第二の一の(一)ないし(十)記載のとおりであるから、これを引用する。
被告人控訴の趣意は、弁護人杉之原舜一提出の控訴趣意書(第二の一および第五を除く。第二の二において引用する第二の一の(四)及(五)とあるのを(三)ないし(六)に訂正)ならびに被告人提出の控訴趣意書中第一点の四および第二点記載のとおりであり、これに対する答弁は、札幌高等検察庁検事吉良敬三郎作成名義の答弁書(第二点のうち井尻正夫に関する部分および第五点を除く)記載のとおりであるから、これを引用する。
(注) 本判決の用語例
一、(証拠)とは原判決挙示の証拠を意味しその下の数字は原判決証拠説明欄の数字を示す。
一、証人尋問調書、公判調書、検察官に対する供述調書は特別のものを除き、左の如き表示による。
原審(28・11・4尋問調書)証人――原審証人の昭和二八年一一月四日尋問調書
当審(三一回)――当審第三一回公判調書
28・5・11検調――検察官に対する昭和二八年五月一一日付供述調書
第一、序論
本件公訴事実は、被告人および原審相被告人井尻正夫(以下単に井尻という)が共謀のうえ、(一)法定の除外事由がないのに、昭和二七年七月頃芦別市字旭町所在大興商事株式会社(以下単に大興商事という)第二寮(以下単に井尻飯場という)等において火薬類である新字梅印ダイナマイト二〇本入三箱位および電気雷管十数本位を保持していたとの火薬類取締法違反の事実、(二)同年六月中旬頃前同所所在地の油谷芦別鉱業所(以下単に油谷鉱業所という)第三坑作業現場(以下単に三坑という、なお、坑に数字を附記するにとどまる場合はこれに準ずる)附近において大興商事芦別油谷現業所所長大野昇保管にかかる鳥井式十発掛電気発破器(以下単に発破器という)一台を窃取したとの窃盗の事実、(三)右両名が外数名と共謀のうえ、人の身体を害しようとする目的で、同年七月二九日午後八時過頃芦別市字農区地籍の国鉄根室本線滝川基点二四・一八一粁附近の鉄道線路に爆発物である新白梅印ダイナマイト数本を仕掛け、これに電気雷管および発破母線を装置したうえ、前記窃取にかかる発破器を使用して点火爆発させ、同所山側軌条約三〇糎を損壊し、よつて、同日午後九時四六分頃同所を通過する下り第九、四六一臨時貨物列車に脱線顛覆の危険を生じさせ、以つて汽車の往来危険を発生させたとの爆発物取締罰則違反ならびに電汽車往来危険罪の事実(以下単に本件鉄道爆破事件という)に帰する。
もとより右(三)の公訴事実の日時場所において火薬類の使用による鉄道線路の爆破という事件が発生したことは明らかである。そこで、いま検察官の原審冒頭陳述ならびに論告にもとずいて、その主張する本件捜査の過程を概観するに、(1)右鉄道爆破発生数日後の同年八月四日右現場の東方約三〇〇米の「よもぎ」叢中に鉄製ハンドルを結び付けた発破器一台、新白梅印ダイナマイト二〇本入用蓋なしボール紙箱在中の同上ダイナマイト一六本、電気雷管一本宛を各装填(捜入)した同上ダイナマイト五本(右雷管の脚線で一束に巻いてあつた)、緑色被覆電話線約二四・七米のもの一本、黒色被覆電話線約一七・七米のもの一本その他数点が遺棄してあるのが発見された、(2)右発見の遺留品と事故現場で発見の押収品とは相互に関連するものであることは、右押収品の紙箱蓋と遺留品の蓋なしボール紙箱の紙質および切断面が一致すること等の点から明らかにされた、(3)ここにおいて本件鉄道爆破について捜査は右遺留品の出所関係から開始されたところ、右遺留品のうち前記ダイナマイトに捜入された雷管、緑色被覆電話線、ボール紙箱に在中のダイナマイト一六本はいずれも油谷鉱業所油谷炭坑(以下油谷炭坑という)で同種類のものが使用されていることや、右炭坑では、六坑、三坑共用の発破器が同年六月中旬頃紛失していること(もつとも、この間、田口実はじめ、高橋鉄男、村上巌、猿山洋一および高橋源之丞等が二坑坑内から鳥井式十発掛発破器を窃取した事件を検挙したが、その賍品はいずれもその処分先から発見されて明瞭となり、遺留品の発破器との関連は全然認められなかつた)等が解明されその結果として、本件捜査の重点が必然的に油谷炭坑に向けられることとなつた、(4)たまたま、昭和二八年二月に至り、大興商事の坑内夫石塚守男、同藤谷一久、同中村誠等が本件鉄道爆破発生前の昭和二七年六月下旬頃火薬を用いて魚獲したとの事実が探知され、さらにまた、大興商事の者二名が同年七月初頃油谷炭坑の六坑捲座差掛小屋(以下単に六坑捲座という)から同所床下の火薬置場に保管されていた火薬類全部を持ち去つたこと、その目撃者は大興商事のあとを引継いだ熊谷組の現場係員馬場武雄であることが判明し、同人の供述から右二名のうち一名は藤谷であることの疑いが濃厚となつた、(5)かくして昭和二八年二月一八日火薬類窃盗容疑で、まず、藤谷を逮捕し、同人は井尻昇とともに六坑捲座から火薬類を三坑に持ち込み、その使用残火薬については石塚が処分した旨供述したので、ついで、同年三月九日石塚を、同年三月一九日中村誠を、それぞれ共謀による火薬類窃盗被疑者として逮捕し取調べたところ、石塚は、勾留僅か二日にして右残火薬を井尻飯場へ持込んだことを供述し、さらに同月一六日に至り、右火薬類は井尻等が本件鉄道爆破に使用したことを供述するに至つた、(6)藤谷もまた検察官に対し、井尻から火薬入手の依頼を受けた事実および石塚とともに井尻から本件鉄道爆破の顛末を打ち明けられて、井尻および被告人等が右爆破に加担していることを知悉した事実を供述した。(7)右の如く、石塚、藤谷両名の供述内容が一致し、しかも右火薬が遺留品である火薬類に符合していたところから、本件鉄道爆破は、被告人および井尻の両名を中心として敢行された嫌疑が濃厚となつたので、同年三月二九日被告人および井尻の両名を火薬類の不法所持被疑者として逮捕するに至つた、(8)かようにして、被告人および井尻の両名ならびに藤谷、石塚等の取調に併行して関係人等の捜査を遂行した結果、原田鐘悦が遺留品の鉄製ハンドルを井尻に渡した旨を同年八月六日に、中村誠が発破母線一本(約二五米)を三坑で井尻と交換した旨を同月二八日に、また発破器関係について同年九月一〇日に、徳田敏明も電気雷管、ダイナマイト等を二、三坑々務所から井尻が持ち出した旨を同月以降に各供述するに至り、同月三日には、井尻もまた発破母線や火薬類は被告人に交付した旨や発破器は中村誠から被告人に渡つていたかも知れない旨自供するに至つた、(9)かような捜査の過程を経て、被告人、井尻の両名に対し、昭和二八年四月一八日まず本件公訴事実(一)の火薬類取締法違反について公訴を提起し、同年九月六日本件公訴事実(二)の発破器窃盗、さらに、同月一七日、本件公訴事実(三)の本件鉄道爆破事件を夫々追起訴したというにある。以上によつてみると、これ等一連の公訴事実は、まさに、本件遺留品、ことに、ダイナマイト、発破器、雷管、発破母線を経とし、藤谷、石塚等の各供述を緯として、本件鉄道爆破事件を最頂点に相互関連の関係において構成されたものといわざるを得ない。
ところで、原判決は、本件公訴事実(一)の火薬類取締法違反については、被告人および井尻を有罪としたが、井尻に対してはそれが本件鉄道爆破に関連があるものとしながら、被告人に対しては、単に平岸炭素工場の解体作業のためのものと解される余地があるとするにとどめ、本件公訴事実(二)の発破器窃盗については被告人および井尻を無罪としたが、井尻に対しては、本件鉄道爆破のため別に発破器を準備した(ただし入手経路は不明)ものとして、本件鉄道爆破事件については、井尻に対しては、被告人との共謀関係を認めて有罪としたが、被告人に対しては、藤谷、石塚の各供述のうち井尻から聞いたとする部分は全部伝聞供述になるから証拠上井尻との共謀を認められないものとして無罪の言渡しをした。これに対し、検察官は、その無罪部分につき、被告人および井尻は、各その有罪部分につき、それぞれ控訴するところ、井尻は本件控訴審係属中の昭和三五年六月二三日死亡し、同人に対しては、同年八月一一日公訴棄却の裁判があり、該裁判はすでに確定しているので、以下被告人に関する各控訴について、左の順序に従い遂次判断を加えるものとする。
第二、本論
第一章 弁護人の控訴趣意第一および第三の点の各論旨について
一、所論は、まず、原裁判所が昭和三〇年二月二二日の公判期日における被告人の忌避の申立(裁判官全員)に対し、原審第三七回公判調書(手続)中忌避の申立に関する事項(その四)と題する部分に記載の如く、右申立を権利の濫用とし、その申立はなかつたものと認めて、これについての裁判をすることなく、審理を進め、本件公判を終結して判決するに至つたのは、明らかに訴訟手続の法令違反に該当するから、原判決はこれを破棄して本件を他の適当な裁判所に差戻すべきであるというのである。
なるほど、所論公判調書によれば、所論のような原審措置の事実が認められる。しかし、原審が所論措置に出た事情を右調書にもとずいてこまかに検討してみると、右公判においては、原審弁護人から原審裁判官大矢根武晴に対し忌避の申立がなされたところ、原裁判所がこれを却下したことに端を発し、被告人等およびその原審特別弁護人等はそれぞれ右却下の決定をした同裁判所には公正な裁判をなす態度にかけるものがあるとして、同裁判所を構成する裁判長裁判官田中登、裁判官大矢根武晴、裁判官栗原平八郎の三裁判官全員に対し忌避の申立をなし、同裁判所が右各忌避の申立は訴訟を遅延させる目的のみを以てなされたものとしてこれを却下するや、再び前同様の理由で右裁判官全員に対し忌避の申立をなし、前同様に却下されるや、また前同様の申立を繰り返えしたので、同裁判所は、右忌避の申立は、権利の濫用であるから、その申立はなかつたものと認め、これに対する裁判はしないと宣したものであることを明認することができる。
もとより、訴訟上の権利の行使が不当に抑在ないし制限されるべきものであつてならないことはいうまでもない。訴訟上の権利としての忌避の申立についても、その申立が訴訟を遅延させる目的のみでなされたことの明らかな場合でも、それが申立権者からなされたかぎり、それなりにこれにする却下等の裁判がなされるべきである。しかしながら、本件にあつては、前認定のように、被告人は、同一公判期日において、すでにその忌避の申立に対して理由を示してこれを却下されたのに対し、それに不服のときは別途抗告をなし得るにもかかわらず、その手続を踏むことなく、徒らに同様の忌避の申立をくりかえしているのであつて、かような忌避の申立は際限なく訴訟を遅延せしめるだけで、刑事訴訟規則一条の規定に照しても、到底許容し得ないと解されるから、原審が所論被告人の忌避の申立を最後には忌避権の濫用と認めて、訴訟上の忌避として取扱わない措置に出たのはやむを得ないものとして是認されるべく、これと見解を異にしての所論は採用のかぎでない。論旨は理由がない。
二、つぎに、所論は、裁判官の面前における供述調書を刑事訴訟法三二一条一項一号の書面として、また、検察官の面前における供述調書を同二号の書面として各これを証拠とすることができるのは、その各供述者が公判準備若しくは公判期日において証人として供述する際、何等かの圧迫を受けたこと等によりその供述の任意性を疑わしめる等の特別の情況が存する場合にかぎるとの前提に立つて、原審公判準備若しくは公判期日における各証人の供述に際してはかかる任意性を疑わしめるような情況は少しも存せず、ことに、検察官の面前における供述は公判期日のそれに比し、かえつて任意の供述をなし得ない情況の下になされた疑いがあり、従つて、原審証人の裁判官や検察官の面前における供述調書は証拠となし得ないのにもかかわらず、原判決がかかる供述調書に証拠能力を認め、とつてもつて被告人に対する原判示事実認定の資料に供したのは、訴訟手続の法令違反があるというのである。
しかし、裁判官の面前における供述調書は刑事訴訟法三二一条一項一号の、また、検察官の面前における供述調書は同二号の各条件を具備するかぎり、その各供述者が公判期日において証人として供述する際、その供述の任意性を疑わしめる等の情況が存しない場合においてもひとしくこれを証拠となし得ること法文の規定自体に徴して明らかである。このかぎりにおいて論旨は理由がない。
第二章 検察官の控訴趣意第一点の原判決には伝聞法則に違背し事実を誤認した違法があるとの論旨について
所論は、要するに、原供述者の供述を内容とする供述者の供述(いわゆる伝聞供述)には、原供述者の供述が原供述者自らの経験した事実についての報告である場合(報告的供述)と原供述者自らの意思の表示である場合(意思表示供述)とがあり、伝聞法則の適用を受けるのは、供述者が前者すなわち原供述者の報告的供述を供述した場合にかぎるものとすべきであり、従つて、後者すなわち原供述者の意思表示供述を供述した場合には右法則の適用の余地はなく、また、前者の場合といえども、原供述があつたということ自体を要証事実とするときには証拠として許容するに何等支障がないものと解すべきところ、原判決が原判示第二のように井尻については、被告人等と共同して判示鉄道爆破を実行したものであるとの、本件鉄道爆破事件を認めながら、被告人については、石塚および藤谷の各供述調書中の井尻の供述を内容とする供述部分はいわゆる伝聞供述として、これに前記意思表示供述部分のあることを看過し、かつ、供述のあつたこと自体が要証事実となることも無視して、全面的にその証拠能力を排斥し、これを除く爾余の証拠によつては有罪の断定をするだけの心証を得られないとの理由で無罪を言渡したのは、伝聞法則の適用を誤り判決に影響をおよぼすことが明らかな事実誤認をした違法があるというのである。
しかしながら、伝聞供述となるかどうかについては、要証事実と当該供述者の知覚との関係により決せられるものと解すべきところ(最高裁判所昭和三五年(あ)第一、三七八号、昭和三八年一〇月一七日第一小法廷判決参照)、本件についてこれをみるに、所論がその意思表示供述とするところは、控訴趣意書補充書二の(一)ないし(五)((一)は証拠(66)に、(二)は証拠(69)に該当)の供述記載部分に該当するところ、右供述記載部分中には、本件鉄道爆破事件発生前の昭和二七年七月中石塚が井尻から聞いたものとして、(一)「火薬は地主(被告人)にやつたとかやるんだとか話して、その火薬をもつて鉄道爆破に行くのだ。」、(二)「鉄道爆破に行くのは、上芦別から大須田と自分と斉藤と三菱をレツドパージでやめた男と四人で歩いて行く、一方地主と外二人が芦別で落合い、それから平岸で右四人と三人が一緒になつてやるんだ。」、(三)「二九日に鉄道爆破のために俺は下るが、このことは絶対に言わないでくれ。」、(四)「鉄道爆破は平岸と茂尻との間で七月二九日にやるのだ、行くのは俺と地主と大須田と外に地主と一緒に来た男、明砿でレツドパージになつた斉藤という奴と三菱でパージになつて大興で働いていた男、山内などである。」、(五)「地主にやつた火薬は爆破事件に使うのだから言わないでくれ。」との旨の石塚の供述、また、右事件発生後の同年八月七日藤谷が井尻から聞いたものとして、(六)「党に関係することなので誰にも言えないが、物を集めたのは芦別の山内方の会議で決つたのだ、その会議は自分と大須田、地主外二、三名で相談した、そして皆で鉄道爆破をやつた、これは絶対に人に言わんでくれ。」との旨の藤谷の供述がある。これを前説示に照して考えると、(一)および(五)において、火薬をもつて鉄道爆破に行くこと、(二)において、鉄道爆破に行くのは自分や地主等で、落合つて皆で一緒にやること、(三)において、一九日に鉄道爆破のために下ること、(四)において、鉄道爆破は七月二九日平岸と茂尻との間で地主等と一緒にやることの各内容を井尻が発言したこと自体を要証事実としているものと解すると、井尻が以上のような内容の発言をしたことは石塚の自ら直接知覚したところであり、伝聞供述であるとはいえない。しかし、(六)においては、鉄道爆破は皆でやつたがこのことは誰にもいわないでくれといわれた旨の藤谷の供述は、秘匿の意思を要証事実としているものと解すると、鉄道爆破の事実を除いては意味を失い、結局、藤谷において直接知覚しない本件鉄道爆破の事実を要証事実に含ましめることとなるので、伝聞供述であるというべきである。伝聞法則についての縷縷の所論も以上の限度において正当なものと解される。してみると、所論摘示の供述中には前説示のように伝聞供述とならない部分があり、その部分は刑事訴訟法第三二一条一項一号または二号によつて証拠能力があるものといわねばならない。このかぎりにおいて、右供述部分をも被告人の関係において証拠能力がないものとして排斥したと認められる原判決には、伝聞法則違反のそしりあるを免れない。(しかしながら、石塚の前掲(一)ないし(五)の供述部分が伝聞証拠ではなく、証拠能力があるからといつて、直ちにその信用力まで保障されることとはならない。ところで、論旨は、伝聞供述とならない供述部分によつて被告人の関係において井尻が被告人と共同して本件鉄道爆破を遂行する意思の存在が明確に立証されるものとし、右事実に加えて、原判決が井尻について認めた(一)被告人が井尻に対し火薬類入手方を依頼した事実、(二)被告人の右依頼により井尻が石塚を介して火薬、雷管を入手しこれを被告人に交付した事実、(三)井尻が徳田敏明を伴い二、三坑々務所を資材置場から火薬類(証第一〇号の一ないし五)等を持ち出した事実、(四)井尻が三坑竪入現場で中村誠から長さ約二五米の緑色被覆電話線一本(証第一六号)の交付を受けた事実、(五)井尻が大興商事の事務所で原田鐘悦から電気発破器用ハンドル一本の交付を受けた事実、(六)本件鉄道爆破現場附近において、右(一)ないし(五)記載の物件と同一ないし類似品と認められるものが本件犯行に使用した遺留品として発見された事実、(七)本件鉄道爆破事件の数日前被告人と認められる男が右現場附近を徘徊していた事実、(八)井尻が本件鉄道爆破事件当日午後六時頃油谷鉱業所附近のペンケ駅発列車で三菱上芦別駅まで下り、翌三〇日午前六時過頃三菱上芦別駅発混合列車で油谷に帰えつた事実ならびに原判決は無罪としたがその誤認であることの明らかな井尻が発破器一台(証第二一号)を窃取した事実等を総合すると、前記の井尻の意思が単に同人だけの一方的な意思ではなく、被告人と具体的に関係のある意思であることが認められ、このことはとりもなおさず、被告人が井尻と本件鉄道爆破事件について共犯関係にあつたものであること、すなわち、被告人に対する本件鉄道爆破事件の公訴事実は優にこれを認定することができ、その証明が十分であるというのである。
そこで、この点に関する所論諸事実についてこまかに検討してみると、以下詳説するように、本件にあつては、その組立てられた証拠関係において、人的な面からも、また、物的な面からも数多の疑問に逢着する。すなわち、
第一、(イ)井尻が被告人から火薬類入手方の依頼を受け、これを入手するに至つた事情、(ロ)右火薬類を被告人に交付し、これを本件鉄道爆破に使用したことに関し、就中重要な人的証拠たる石塚、藤谷等は比較的軽微な事犯のもとに、長期にわたつて勾留され、その間の供述は幾多の変転をかさねており、明らかに客観的証拠とも合致しない点もあつて、その信用性には多分の疑いがもたれること。
第二、井尻が徳田敏明を伴い、二、三坑々務所から雷管(算用数字「5」を刻書してあるもの)やダイナマイトを持ち出したことが否定されること。
第三、(イ)本件犯行現場附近に遺棄された証第二一号の発破器は嘗つて大興商事に存したとの確証なく、所論事情のもとに井尻がこれを窃み出したものとは認められないこと、(ロ)証第一〇号の雷管にしても、それが本件鉄道爆破直後遺棄されたとするには疑いが存すること。
第四、山脇代美子の供述からは被告人によく似た男が本件鉄道爆破事件の数日前に爆破現場附近を徘徊していたものとは認め難いこと等に鑑みると、検察官提出の全証拠をもつてしても、本件鉄道爆破事件は、被告人との関係において到底認めることができないとの結論に到達せざるを得ない。この点について詳説するとつぎのとおりである。
(井尻のアリバイの成否)
本件鉄道爆破事件当夜井尻が山を下つたか、あるいは映画をみていたかが、検察官および弁護人の双方から争われているので、井尻が果して本件鉄道爆破の当夜弁護人主張のように油谷会館で上映「地獄の門」をみていたかどうかについて、ここで判断しておくこととする。
本件鉄道爆破当日の午後七時から油谷鉱業所施設の油谷会館で映画「地獄の門」が上映されたことは当審(一六回)証人永田松太郎の証言および同人作成の昭和二八年一月二八日付答申書によつて明らかである。ところで、右当夜井尻がその妻子や石塚、藤谷等と油谷会館で映画「地獄の門」をみていたことに関し弁護人挙示の各証人、ことに、井尻の本件当夜における動静を最もよく知る筈の同人の妻光子は、原審(二一回)ならびに当審(34・10・18尋問調書)において、「井尻や藤谷、石塚の三人は二九日の午後一時半か二時頃井尻飯場に帰えり、四時過頃揃つて夕食をすませたが、皆で映画をみることとなり、午後五時過頃、私が大興商事の事務所にその券を貰いに行つた、券を貰うとき藤谷や石塚の分も請求したが、本人でなければ渡せないといわれたので夫と私の分二枚を受けとり、その帰途、油谷会館の二階座席のスクリーンに向つて左側前から二段目の椅子に背負帯を延して席をとつて置き、一旦家に帰えつて券を渡し、また、皆より一足さきに会館に引き返して、席に坐つて窓越しに家の方をみていると、午後六時頃であつたと思うが、夫や藤谷、石塚の三人が線路伝いにくるのがみえた、それから、三、四〇分過ぎて右三人が入つてきて、私のとつていた席に、夫、藤谷、福田米吉、守(藤谷の子供)、私の順に並んで、終りまで映画をみたが、映画は長谷川一夫、三浦光子等共演の『地獄の門』という題名で鍵をめぐつての捕物を内容としたものであり、それが終つたのは午後八時半頃であつた。」旨証言する。しかし、証第一五四号の売炭伝票綴、証第一四四号の金銭出納簿の各関係部分の記載を当審(四三回)証人三好吉光の証言と合せ考えると、大興商事では本件当時、従業員に対し、その賃金と差引く方法で、希望に応じて映画の券を交付していたが、経理の都合から現金(入場料相当額)で渡すこともあつて、二九日の場合は現金で渡したこと、およびそのいずれの場合も、渡した相手方従業員の氏名は必ず出金伝票に記載されていたことが認められる。してみると、前掲井尻光子の証言はもとより、ひとしく大興商事の従業員であつた弁護人挙示の原田米吉、村上忠吉(大興商事の事務所で映画の券を貰つた旨)、原田文子(自分は「地獄の門」はみに行かないが、三好吉光が右事務所でその入場券を藤谷に渡しているのをみた旨)の各証言は、いずれも映画の券の点で事実に合しないこととなるのみならず、また、前掲売炭票綴の関係部分の出金伝票中には井尻やその妻光子その他原田米吉、村上忠吉等の氏名の記載もないので、これらの者の証言はにわかに信用し難いものといわざるをえない。弁護人は、右出金伝票の記載内容の正確性を否認し、事件後一〇年余を経た今日その証拠調を請求するに至つた検察官の措置の不当をいうのであるが、右出金伝票が前認定の事情のもとに作成されたものであることに鑑みると、直ちにもつて不正確なものとはなし難い。そして、一方、井尻が油谷会館で「地獄の門」をみたというのであれば、そのことは、本件当夜の同人の行動を証する重要な事柄ではあり、同人としては、その取調を受ける当初からその旨の供述をすべきものと考えられるのに、その28・5・11検調では、「二九日の午後五時頃他を廻つて、一人で油谷会館に入り、下の観覧席の真中辺に光子と子供が座つているのを発見したので、そこに行つて右側の席に腰かけて映画をみた、筋は思い出せないが、時代劇で多分豪傑三人男という題で阪妻、大河内、月形というような役者が出たと思う。」旨供述し、28・5・22検調では、「二九日午後七、八時頃油谷で映画をみた、題は忘れた長谷川一夫出演の落人が五つの鍵で秘密を開くとか探るとかいうものであつた、一足さきに出て他を廻つた後劇場に行つた、そこで藤谷と子供二人を連れた妻光子と会い、皆で帰えつたのは八時か八時半頃であつた。」旨供述しているのであるが、その妻光子と一緒に「地獄の門」をみたというにしては、その内容において光子の前掲証言とも著しく符合しない。従つて、井尻が本件鉄道爆破当夜、その妻子や藤谷、石塚等と映画をみたということは認め難く、従つてまた、この点から本件鉄道爆破事件を否定することはできない。
一、被告人が井尻に対して火薬類の入手方を依頼し、これにより井尻が石塚を介してダイナマイト、雷管等を入手して被告人にこれを交付したとの点について
所論は、被告人が井尻に対し火薬類入手方依頼の事実および右依頼により井尻が石塚を介して火薬類を被告人に交付した事実を挙げ、原判決もまた、井尻についてはその旨認定し、井尻が火薬類を入手して被告人に交付した点につき、原判示第二の二(一)ないし(三)の事実として、井尻は、被告人の依頼によりあるいは被告人との共謀にもとずき、昭和二七年六月下旬頃六坑々外ズリ捨場附近の草原において、昼休みをした際、石塚に対し、火薬類の入手を依頼し、石塚は、同年七月四日夜二番方の作業終了後、右依頼に応じるため、その日の残火薬全部(この火薬は同じ番方で働いていた藤谷、井尻昇の両名が六坑捲座の火薬置場から作業現場である三坑まで運搬した新白梅印ダイナマイト二〇本入四箱位、電気雷管二、三〇本位の使用残で、ダイナマイトは二〇本入三箱位に在中の合計五五本位、電気雷管は一四、五本位)をダイナマイトに雷管を挿入するために用いた四寸釘一本とともに背負袋に入れ、三坑から井尻飯場まで運んで井尻に交付し、井尻は同夜これを受け取つて右飯場内に隠匿し、同年七月中旬頃、同飯場で被告人に交付した旨認定している。弁護人は、これを全面的に否認し、ことに、当時、六坑捲座には火薬類は残存せず、かりに残存していたとしても、それを運んだのは藤谷等ではなく、従つて、石塚がさらにこれを運んで井尻に渡す余地はないと主張する。
(一) 石塚は七月四日夜三坑から火薬類を持ち出し井尻飯場に運んだか
まず、昭和二七年七月四日頃六坑捲座に火類薬が残存していたかどうかについて検討してみると、大興商事においては、油谷鉱業所の下請として、その六坑、三坑の作業をなすに当り、それに要する火薬類はすべて油谷鉱業所から交付を受け、同年七月一日右六坑現場が熊谷組に引継がれる頃まで、右交付を受けた火薬類で残つたものは必ずしも返戻の手続をせず、六坑捲座に保管して置いて、坑夫等がそこから作業に要する必要量を自由に持ち出せるようにしていたため、六坑捲座には常時相当量の火薬類が保管されていたことは記録上明らかである。ところで、原審(三一回)ならびに当審(八回)証人鷹田成樹は、六坑が熊谷組に引継がれるに際し、六坑捲座も引渡すこととなつて、そこにある火薬の整理返戻方を右引継前から浜谷博義に命じておいたので、七月一日から二日頃そこにあつた道具類だけは自分で返したが、火薬類は浜谷がどのように処理したかは確かめていないし、その後その火薬類がどうなつたかわからない旨供述し、原審(一三回)証人浜谷博義は、七月二、三日頃六坑捲座に火薬の整理と道具類の返還のために行くと、火薬類があつたので、新桐印ダイナマイトは油谷炭鉱の係員に返還し、新白梅印ダイナマイト八〇本位は三坑で使用しようと思い、ボール紙箱にいれ、不発雷管三本、使用し得る雷管は一〇本一束になつたもの二束を、束になつたまま木箱にいれておいたが、その後六坑捲座に行つたことがないのでどうなつたかわからない旨供述(証拠(29))しているのに徴すると、証人馬場武雄が七月四日には六坑捲座になおダイナマイト四箱位が残存していたと供述(証拠(25))するのは必ずしも排斥し難い(弁護人は、証人福士佐栄太郎が原審31・4・4尋問調書中で、六坑捲座にあつた道具類を七月三日に返したのか確かで、そのとき、火薬類も調べてみたが、そこには一つも残されていなかつた旨証言しているのを挙げて、七月四日には六坑捲座に火薬類がなかつたことの一証左ともしているが、同証人は当審一五回公判で、右の点について、六坑捲座の火薬類は鷹田が始末したものと思い、その入れてある箱の蓋をとつて中を確かめてみたわけではない旨の証言をしているので、前証言をそのまま採るを得ない)。
そこで、藤谷、井尻昇の両名が四日夜六坑捲座から右火薬類を持ち出して三坑に運んだかどうかについて検討するに、同日藤谷、井尻昇の両名が石塚とともに二番方として三坑で働いたことは証第一四六号の三坑七月分操業証、証第一二五号の七月分工数簿の各記載からも認められるので、その作業の関係から必要な火薬類を運搬してくるため六坑捲座に行く可能性は十分存するものといえる。このことに、証人馬場武雄が四日の午後七時頃大興商事の者二人が六坑捲座附近で火薬をもらいにきたというので、一緒に六坑捲座に行き、そこから火薬類全部を持ち出すのに立会つた旨供述(証拠(25))し、藤谷は原審(四回)、(証拠(20))で、四日の午後六時半か七時頃昇と二人で、六坑捲座の火薬置場へ火薬類を取りに行つた旨供述し、井尻昇もまた原審(一三回)で六坑捲座から火薬を運んだ旨供述していることを合せ考えると、藤谷と井尻昇の二人が六坑捲座の現存火薬全部(もつとも、藤谷は原審六回で運んだ数量は不明で原審四回等で供述したのは記憶にもとずいたものではないと証言している。)を三坑まで運んだものと認めざるを得ない。
ところで、検察官は、被告人が井尻に対し火薬類の入手方を依頼し、そのため、井尻がさらに石塚に対し、その入手方を依頼した事実があるとして、右藤谷等の運んだ火薬類のうち三坑で使用残りのものは同夜石塚が三坑から井尻飯場に運搬した旨主張する。そして、石塚もまた原審(五回)、(証拠(18))、同(七回)、(証拠(16))等において藤谷等が運んだ火薬類の使用残りは三坑から井尻飯場に持ち帰えつたように各供述している。しかし、果して石塚が検察官挙示のような経緯で火薬類を運搬する事情にあつたかどうか、この点について考察してみる。
(イ) 被告人は井尻に火薬類の入手を依頼したか
所論は、この点に関し、原判決が井尻について原判示第二の三の本件鉄道爆破の実行行為を認める総合判断の対象に供した事実すなわち井尻が昭和二七年六月二〇日頃井尻飯場において被告人から火薬類の入手を依頼された事実は被告人についても認められるとし、その証拠として、原判決挙示の証拠のうち右入手依頼の直接の証拠となつている井尻の供述(証拠(150))および石塚の供述(証拠(152)、(153))を挙げ、弁護人が石塚の供述にいう二〇日の午後には被告人や井尻は井尻飯場におらず、また、井尻の居室の隣室は七月初めまでは一二畳の大部屋であつたことを挙げて石塚の供述の信用性を争うのに対し、原審証人藤田長次郎の証言や米森順治の28・7・16検調によるも弁護人の右主張は認められないとしてこれを排斥するものである。しかるに、石塚の右供述によれば、(1)岩城定男の腹痛みのため入院騒ぎのあつた日で、かつ、賃金交渉をして仕事をしなかつた日の昭和二七年六月二〇日頃の午後二時半頃石塚が井尻飯場に帰えり地下足袋を脱ぎながら何気なく井尻の部屋の方をみると、被告人と大須田と、名前の知らない男と、井尻、井尻の妻の姿がみえたこと、(2)右部屋隣りの六畳間の自分の部屋に入り風呂に行くため身仕度していると、被告人の声で火薬を使うことができたから都合してくれと頼んでいるのが聞こえたこと、これに対し井尻が火薬は自分が保管しているが自分は持ち出せないというようなことを答えていたこと、(3)その日午後二時過頃原田鐘悦が六坑捲座へきて、井尻に対し、用事のある人がきているから帰えつてくるようにといつて迎えにきたこと等の事実が具体的にされるので、かかる事実があつたか否かについて検討してみるに、まず、二〇日の日に岩城定男が腹痛のため入院騒ぎがあり、かつ、その日は賃金交渉のため一番方として出勤した者は仕事が手につかず結局その時間終了まで仕事を休んでいたことは原審(三回)証人中村誠、同(四回)藤谷一久の各証言によつてもうかがい得られる。ところで、原田鐘悦が井尻を迎えにきたかについては、右原田が証人として原審(一〇回)で、現場へ人を呼びに行つたことは一度もない旨証言するところは、原審(二五回)証人大須田卓爾の証言によつても措信できないが、さればといつて、同証人の証言も原田が使いしたのは昭和二七年六月初め以前の頃と八月頃、井尻を訪ねたときのことであるというのであり(証拠(160))、原田鐘悦の供述(証拠(155))自体、日ははつきりせず、かつ、その井尻を呼び出したという状況も井尻の供述(証拠(150))と矛盾していることがうかがえるから、六月二〇日に原田が井尻を現場まで迎えに行つたことはないものと認めるほかはない。つぎに、石塚のいう自分の部屋が六月二〇日当時井尻の部屋の隣りに作られていたかについては、米森順治は原審ならびに当審において七月上旬の如くいうのであるが、しかし、右各証言から同人が盲腸炎で四月末入院し、約三週間で退院した後約一箇月程静養し、再び大興商事で働き始めて、まだ、坑内で働くのは無理な当初頃、二日位で井尻飯場の居室の隣りの大部屋一二畳を仕切つて六畳二間に改造したものであることがうかがわれるし、また、証第一四七号の七月分坑外操業証、証第一四六号の三坑七月分操業証、証第九二号の二および証第一二五号の各工数簿(六、七月分)の各記載により同人は七月三日に水洗土場の整理や水洗の坑外作業を、翌四日は三坑二番口向掘作業をしていて、その後坑外坑内で働いた事跡なく、同月九日以降は専ら三坑で坑内作業に従事していることがうかがわれるのに徴すると、井尻が飯場の部屋の改造は、早くて六月末頃と認めるのが相当であり、所論摘示の米森の28・7・16検調(証拠(159))中飯場の修理をしたのは確か六月下旬頃のことで七月には入つていなかつた旨の記載も、右の趣旨と解されるので、所論のように、六月二〇日当時すでに井尻の部屋の隣り部屋が六畳二間に仕切られていたものとは認め難い。してみると、石塚が井尻飯場の井尻の部屋の隣り六畳間の自室で被告人や井尻等の間で火薬入手についての話があつたのを聞いたこと、その前に原田鐘悦が井尻を現場に迎えにきたことを供述したのは事実に即しないこととなり、そのうえ、証人斉藤君子、同佐藤利夫が各原審(二九回)で、六月二〇日午後には被告人は奈井江にいたと証言するところもあつてみると、同日被告人や井尻等が井尻飯場で会合したこと自体が疑わしく、これを前提としての石塚の前掲供述は信用し難いこととならざるを得ない。証人藤田長次郎の証言を挙げて、井尻には右会合をもつ時間的余裕があつたとの所論はその前提をかくものとして採用し得ないし、石塚が右会合が岩城定男の腹痛の日であつたというかぎり、井尻のいう六月一七、八日頃の会合のこと(証拠(150))を六月二〇日と過誤したものとも解されない。しかも、右六月一七、八日頃の会合のことについての井尻の供述も石塚の供述を除けば実質的にこれを裏付ける証拠がなく、信用するにたえない。
(ロ) 井尻が石塚や藤谷に火薬類の入手方を依頼したか
所論は、この点に関しても、原判決認定の井尻が昭和二七年六月下旬頃六坑々外のズリ捨場附近の草原で、昼休みをしていた際、石塚に対し火薬類の入手方を依頼した事実を引用するのであるが、その原判決挙示の井尻や石塚の各供述(証拠(5)ないし(11))をこまかに検討してみると、依頼の場所やそこに藤谷が居合せたことは符合し、日時の点において、井尻が二七、八日頃といい、石塚が三〇日頃というのもさして支障はないにしても、その依頼の模様について、井尻は、炭素工場の解体作業の話を持ち出して、地主から火薬の入手方を依頼されたからと話しを進め、義兄である藤谷には頼み辛らく、その傍で、とくに石塚に対し、火薬を運んでくれと頼んだが、いつまでに、どの位の火薬を持つてくるようにと具体的な指図はしなかつたといい、石塚は、頼まれはしたが別に相談にはのらなかつたし、用途については何も聞いていないし、聞いてもみなかつた、六坑、三坑の切替の時に持ち出してくれといわれたといい、相互にくいちがいをみせている。しかし、かように、くいちがいの供述をなすこと自体、事実を経験した者の供述としては、納得し難いものがある。さらに、これを藤谷の検察官に対する供述(28・4・26および28・5・18検調)と対比検討してみると、検察官の取調に対し、藤谷は、まず、日時の点は石塚の供述に符合させつつ火薬を頼んだのは井尻であると供述し、ついで石塚も、頼まれたのは井尻からであつて魚取りの翌日頃である旨(28・5・4検調)供述を改め、今度は、藤谷が頼まれた日時を右に符合する魚取りの後の六月末頃といい、それに加えて、井尻から六坑の現場切替の混雑を利用してやるようにともいわれたと供述するや、これについで、石塚も、三坑、六坑の切替になる時持つてきてくれないかなと井尻からいわれた旨を附加した供述(28・7・21検調)をしていることが明らかであるから、その供述は、石塚が原審(六回)で「三〇日の昼過ぎに井尻から頼まれたといつたのは、一人で考えていつたのではなく、藤谷が魚取りの翌日の昼過ぎ井尻から頼まれていたといつていると言われたので、私もそのように述べた。」旨証言するように藤谷の供述に合せてなされたものとも解せられ、このことからも石塚の前掲各供述(証拠(5)ないし(11))はにわかに信用し難い。一方、井尻にしても、三〇日頃は賃金不払のため、現場において夜遅くまで交渉をもち、ついで翌七月一日には札幌の本社に出かけたこと、および、火薬類をひそかに入手しようとすれば、あえて石塚等に依頼しなくても、自ら容易に入手し得る環境にあつたこと等が記録上十分うかがわれることに鑑みると、かかる事情や環境のもとにおいて、わざわざ石塚等に火薬類の入手方を依頼すること自体疑問とせざるを得ない。かようにして、井尻が石塚や藤谷に火薬類の入手方を依頼したとする所論を直ちに肯定するわけにはゆかない。
以上考察してくると、石塚には検察官主張のように火薬類を井尻飯場まで運搬しなければならない事情はまつたくなかつたとの疑いがまことに強いものといえる。それにもかかわらず、石塚が前記のような火薬類運搬の供述(証拠(16)、(18))をしたのは何故であろうか。石塚は、その供述をなすに至つた理由として、当審(六回)で、取調官から、井尻の奥さんから何か頼まれたことはないかと聞かれ、石炭とたきつけを頼まれて持つて行つたと答えたら、その石炭の中に残火薬を入れて行つたのではないか、藤谷も井尻(昇)も全部みていたといつているといわれたので、そのように述べるようになつた旨証言する。そして、その検察官からの取調の当初において、石塚が右に即した趣旨の供述(28・3・31検調)をしていることからも、右証言はにわかに排斥し難いものがある(従つて、石塚が残火薬の運搬等について検察官所論のように勾留僅か二日位で供述するに至つたからといつて、そのことから直ちに右供述をもつて事実に即してなされたものとも推断し難い)。もつとも、石塚は、原審(八回)でダイナマイトを使用して魚を獲つたことで昭和二八年四月二〇日火薬類取締法違反として起訴され、三坑から井尻飯場まで本件残火薬類を運搬したことで同年七、八月頃同法違反として追起訴され、右各違反の罪につき、同年九月一二日に懲役四月および罰金四、〇〇〇円に処する旨の裁判を受け、未決勾留四箇月が右懲役刑に通算されたこと、しかし、別段控訴することをせず、罰金を納めたものであることを明らかにしている。そこで、このような判決を認諾したことからして、石塚が残火薬を井尻飯場まで運搬した旨供述するところは、真実を述べたものとして否定すべきではないと一応考えられるかのようである。しかしながら、石塚が藤谷の供述によつて逮捕勾留され、その後長期間にわたつて逮捕勾留をくりかえされており、右裁判確定後もなお従前に引続き検察官から取調を続行されていたこと(28・10・27検調二通の存在)、同人には戦傷による頭脳障害の存すること(当審公判廷でもその供述態度からうかがえた)等を合せ考えると、石塚が原審(九回)および当審(三三回)で、右控訴の申立をしなかつた理由として、火薬運搬のことに不服がなかつたというのではなく、ただ、ダイナマイトを使用しての魚獲のことは本当であり、それに火薬類運搬のことで控訴すると、そのことでまた勾留をくりかえされる懸念が実際にも感じられたことによる旨供述しているのは、単なる弁解とも思われない。従つて、検察官の主張に添うような石塚の前記供述(証拠(16)、(18))にあらわれた火薬運搬の点はその動機を欠き事実に即しないとの疑いが濃厚というべきである。
(二) 被告人は七月中旬頃井尻飯場で井尻から火薬類を受取つたか
所論が、この点の証拠として挙げるところも、この点に関する原判決挙示の証拠のうち井尻および石塚の各供述(証拠(37)、(40)ないし(42))に帰するのであり、その被告人に渡した火薬類は井尻が七月四日夜石塚から受けとつたものを七月一九日に渡した(その日被告人が右手に重箱様の四角い箱を風呂敷に包んで左手に五つ位の男の子の手を引いて歩いて行くのを井尻飯場附近で石塚が目撃した)というにあるが、被告人がかねて井尻に火薬類の入手方を依頼していたこと、井尻が七月四日夜石塚から井尻飯場で火薬類を受取つたことが疑われることはすでにみてきたとおりである。所論は、井尻が被告人に対し右火薬類を渡すときの模様について詳しく供述していることを強調するが、それだけで直ちに事実に即した自供とはにわかに解されない。蓋し、自ら経験したことでなければ述べられない事実を含んでいるものではないのみならず、井尻の供述を支える石塚の供述をみても、被告人に火薬を渡したとする時間関係やその直後の井尻や被告人の行動について両供述の間に著しい矛盾があつて、同一事実を供述するものとしては不合理の感をまぬかれない。ことに石塚は、右目撃の日時を当初は七月七日と供述(28・3・31検調)していたのを七月一九日からその前日であると供述を変え、その理由も公休日の関係から思いちがえたとする(28・5・6検調)には、いささか納得し難く、結局、前掲各供述も疑わしいというほかはない。
二、井尻が徳田敏明を伴い、二、三坑々務所から火薬類を持ち出したか
所論は、井尻が昭和二七年七月初旬頃の午後八時半頃徳田敏明を伴い、油谷鉱業所の二、三坑々務所資材置場から、二坑発破係員西浦正博の保管する新白梅印ダイナマイト二〇本入一箱位および電気雷管一束一〇本位(証第一〇号の一ないし五)を持ち出した事実を挙げ(原判示第二の二(一)(4)の事実の一部)、この点に関する原判決挙示の証拠のうち≪証拠省略≫をその証拠としている。そして、右証人西浦の供述によれば、右二、三坑々務所で七月初旬頃右火薬類の盗難があつたことは一応うかがえるけれども、直接所論事実の証拠となるのは証人徳田の裁判官に対する供述(証拠(48))以外にはない。ところで、右供述は、徳田が検察官に対してなした供述の結果にもとずくものと思料されるが、その検察官に対する各供述調書においては、当初、七月初旬六坑が熊谷組に引継がれ井尻が三坑に入つた直後の頃、井尻に頼まれて二、三坑々務所から油とダイナマイト一箱、雷管七、八本を単独で持ち帰えつて、ダイナマイト、雷管は三坑々口で井尻に渡した旨供述(28・9・12検調)し、つぎには、井尻と二人で坑務所の事務室まで行き、井尻が事務室の奥へ入つて母線と火薬や雷管を持つてきた、渡された火薬と雷管は私が持ち、母線は井尻が持つて、二人で三坑に帰えつた旨供述(28・9・13検調)し、以後は、井尻と二人で行つて井尻が一人で中に入り、右物件を持ち出し、母線は井尻が、ダイナマイト、雷管は徳田が持ち、二人で帰つたという点は共通するが、待つていたのは坑務所の表(アンコ場の角)といい、持ち帰えつたのは三坑へか井尻飯場へかわからないといい、ついには、どちらに持ち帰えつたかについてはよく記憶を思い起してみる旨供述(28・9・15および9・16各検調)していて、その供述の変改は単なる思いちがいというだけの弁解では理解し難いものがあるばかりでなく≪証拠省略≫によつて、前記盗難の日はおおむね七月七日以降一〇日前後と推定されるのに、その頃徳田が井尻と同じ番方で三坑で働いたと認める事跡がないこと証第一二五号七月分工数簿や証第一四六号三坑七月分操業証の各記載に照して明らかなことに徴すると、徳田のいう七月初旬頃(七月四日前後であることは六坑引継ぎの時期から明らかである)の午後八時頃井尻と二人で二、三坑々務所へ行つたことを前提としての前記検察官に対する各供述、従つて、これにもとずく所論挙示の徳田の供述(証拠(48))は到底信用するを得ないので、これを証拠として、所論事実を認めるに由ない。
三、井尻が中村誠から緑色被覆電話線一本の交付を受けたか
所論は、井尻が昭和二七年七月上旬頃、三坑竪入現場で中村誠から長さ約二五米の緑色被覆電話線一本(証第一六号)の交付を受けた事実(原判示第二の二(一)(5)の事実)を挙げ、この点に関する原判決挙示の証拠のうち≪証拠省略≫をその証拠としている。右各供述によれば、同年六月二三日頃(福士証人は六月初旬頃という)中村誠が大興商事の発破係員福士佐栄太郎から長さ二五米の緑色被覆電話線一本を新しく支給を受けて、爾来発破母線として三坑向堀で使用していたことは認め得られる。しかし、福士証人は右尋問調書において「中村に新しく発破母線を渡したのは、同人から三坑竪入と向堀が一本の母線を共用していたのでは不自由だから向堀用として新しい母線をもらつてきてくれと頼まれたことによる。」旨証言しており、原審(31・4・4尋問調書)では、母線を支給するといつても、直接交付したことはなく、手伝わせて現場に張ることをいう旨証言し、原審(三一回)証人鷹田成樹は、「三坑は岩層掘進であり、これに一回でも使用した母線は今示された母線(証第一六号)程度の破損では済まず、これ以上の擦り傷ができると思う。」旨証言していることに、中村が母線の支給を受けてから井尻に交付したという期間までの使用回数を合せ考えると、同人の供述中「御示しの母線(証第一六号)は線の両端が私のやつたような方法で露出させてあり、色もこのようだし、新しさ加減もこれ位であつたと思う。」旨(証拠(57))、「よく手に取つてみたが、私が井尻に交付した母線に大体間違ない。」旨(証拠(58))証言するところはいささか疑問がもたれ、かえつて、同人が当審(三回)証人として、「これまで発破母線(証第一六号)をみせられて、その両端が自分特有の予備母線との結線の仕方であり、そのあとが残つているという供述をしたのも、それは何も特有のものではなく、逮捕勾留がくりかえされている間、結局、母線を井尻にやつたといつてしまつたので、そのようにいわざるを得なくなつたので、家際は貫つた母線は三坑の竪入と向堀で自由に使つていた。」旨証言しているのは必ずしも不合理なものとも認め難い。従つて、井尻が、「母線は交付を受けたというのではなく、ただ現場をかえて自己の現場で使用したにすぎない。」旨供述(28・9・3検調)するところもまたうなずけなくはない。
四、井尻が原田鐘悦から鉄製ハンドルを受取つたとの点について
所論は、証第二二号の電気発破器ハンドル一本は井尻が昭和二七年六月一〇日頃、大興商事の事務所で、安全燈係の原田鐘悦から交付を受けた事実(原判示第二の三の事実の一部)を挙げ、この点に関する原判決挙示の証拠のうち、井尻の供述(証拠(134))および原田鐘悦の各供述(証拠(137)、(138))をその証拠としている。そして原田は、「全部鉄でできているハンドル一本が係員の鷹田さんの机の上にあるのを見たり、柱にかかつているのを見たりしていたのであるが、何処にもなかつたので、机の中にでも入つているのではないかと思い、鷹田さんの机を開けてみたが見当らず、つぎに事務所入口の直ぐ左側にあるいつも係員の福士佐栄太郎さん、三好さん、出町幸雄さん等が座つている机の抽斗を開けてみると、左隅に確か全部鉄でできたハンドルだつたと思うが一挺あつたのでこれを井尻さんにやつた。」旨供述(証拠(138))しているが、しかし、原審(三四回)証人三好吉光は、「大興商事で全部が鉄でできているハンドルは全然みたことがない、福士係員の机は専用ではなく、その抽出を開けたことは何回もあつたが鉄製ハンドルをみたことはない、同人も持つているのは、把手のところは木でできていた。」旨証言し、原審(三一回)および当審(八回)証人鷹田成樹は、大興商事の発破器のハンドルは持手が木製、差込箇所が鉄製と思う、大興商事にいる間には鉄製のハンドルを見たことがなく、文鎮代りに使つたり、柱にかけてあるのを見たこともない旨供述し、福士佐栄太郎の供述(証拠(139))も、作業で使用するのは柄が木製のもので、鉄でできているものを使用しないと思うといい、必ず鉄製ハンドルがあつたとはいつていないし、その紛失の事実さえ意識していない。かようにみてくると、大興商事に原田のいうように鉄製ハンドルがあつたことは疑わしい。
原田は、右鉄製ハンドルの窃盗容疑で逮捕勾留されたのであるが、その契機が藤谷の供述(28・7・30検調)(井尻がハンドルは原田に持つてきてもらつたといつた旨の供述)によるものであることは明らかであり、この藤谷の供述に信用の措けないことは後に説く(本章の七)とおりであるから、原田が証人として原審(四八回)で「当時鉄のハンドルは私が盗んだことになつておつた、然し私には身に覚えのないことだつたのでそれを否認したら、お前から受取つた者が受取つたと云つているのだとまる一日しつこく追求されたため、皆がそう云つているのであれば仕方がないという気持になつてその様な嘘の供述をした。」旨証言しているのは必ずしも単なる弁解ともなし得ない。井尻もまた、藤谷が右供述をするまで、ハンドルのことを供述したことはなく、そのことを供述するに至つたのが自己の記憶に即してなしたものであるかどうか同人に対する捜査取調の経緯に徴して疑わしい。
五、発破器関係について
一、本件鉄道爆破発生直後現場附近で証第三三号の青色被覆電話線(六〇糎)、証第二号の紙蓋破片その他の物件が、また、事件数日後の八月四日右現場から田圃を通して東方約三〇〇米離れた厓上の燕麦畑つづきのよもぎ原の雑草中で証第一〇号の電気雷管、証第一六号の緑色被覆電話線(二四・七米)、証第一七号の黒色被覆電話線(七・六米)、証第一八号の同上電話線(一七・七米)、証第二一号の電気発破器(鳥井式十発掛)、証第二二号のハンドル、証第一九号の新白梅印ダイナマイト空箱(当時同上ダイナマイト一六本在中)その他の遺留品が夫々発見されたことは、前者については司法警察員作成の昭和二七年七月二九日付および三〇日付の各検証及差押調書により、後者については司法警察員作成の同年八月四日付実況見分調書および領置調書により明らかである。
二、検察官は、大興商事では三台の発破器のうち二台が昭和二七年春頃から同年六月中旬頃までの間に紛失しており、その一台は証第一二九号の発破器に該当する(但し紛失の時期は不明である)が、他の一台は証第二一号の発破器であつて、右発破器は同年六月中旬頃まで六坑、三坑で共用されていたところ、井尻がその頃三坑附近から窃取したものである(発破器埋没の事実はない)と主張し、証第二一号の発破器の外形的特徴を挙げ、右発破器が大興商事芦別油谷現業所に嘗つて存在していたことがあり、本件鉄道爆破事件の少くとも一箇月前までは六坑、三坑で共用されていたことは、原審証人中村誠≪中略≫の各証言によつて明らかであるというのである。
弁護人は、これに対し、本件当時大興商事では、第二露天で使用のもの一台(二台あつたうち一台は埋没)と、六坑、三坑で共用のもの一台との二台の発破器だけしかなかつたのであるから、検察官所論の日時頃三坑で紛失した発破器は後に発見された証第一二九号の発破器だけであつて、証第二一号の発破器ではなく、従つて、井尻がその頃同所で右発破器を窃取する余地はないと主張するものである。
(一) 大興商事における発破器の存在と証第一二九号の発破器との関係
(イ)、昭和二七年春頃から六月頃までの間、大興商事には三台の発破器があつて、そのうち二台は第二露天にあり、一台は六坑、三坑共用であつたことは原審および当審を通じてほとんどの証人が認めるところであり、とくに、発破器の管理者である原審≪証人省略≫の各証言によつて明らかである。そして≪証拠省略≫を合せ考えると、右第二露天で使用の発破器二台は大興商事所有のものであるが、六坑、三坑で共用の発破器一台は、大興商事が油谷鉱業所の下請として昭和二七年四月頃(小松田武雄の検察官に対する供述調書中には、当時露天の発破係助手をしていた同人が二月末頃、二、三日六坑の方を受持つようになつた旨供述しているので、あるいはその頃としても)から六坑の作業をなすにあたり、その頃大興商事においては余分の発破器がなかつたため、番号を控えて油谷鉱業所から借受けたものであること、右発破器はそれ以来、引続き常時六坑、三坑で共用されていたところ、福士が札幌に講習に出かける前頃(おおむね六月二三日頃と認める)ハンドルだけを残して右発破器が紛失したことに気付き、その頃探したがついに発見されなかつたこと、しかも、油谷鉱業所では右発破器一台以外に大興商事へ貸与したものはないこと等を認めるに足りる。そして、その紛失の発破器の番号が一五三五九であることは、前掲京家および福士の各尋問調書および原審証人中田正の31・4・11尋問調書によつてこれを認めるに十分である。ところで、昭和二八年二月頃坑内係員が三坑々内を巡回中同所矢木の後側で偶然にも発破器一台を発見し、その番号も一五三五九であつたことが≪証拠省略≫によつて明らかである。
(ロ)、第二露天にある二台の発破器のうち一台は性能が悪く、ほとんど使用されることなく事務所に保管されている状態であつたことは多くの証人の立証するところである。前掲京家証人の証言≪中略≫を総合すると、六坑が熊谷組に引続がれたことから、大興商事としては従来借用の証第一二九号の発破器を油谷鉱業所に返納する必要を生じたが、その当時前記のように紛失していてこれを返えすに由なく、一方、油谷鉱業所からは返還を迫まられたので、その代りとして、大興商事所有の右性能の悪い発破器一台(番号九三三〇)を七月以後八月中旬頃までの間に返還したことが認められる。もつとも、鷹田証人は原審(三一回)で、その頃第二露天の他の一台の発破器はなく、今また残りの発破器を油谷鉱業所に渡したので、札幌本社から新しいのを取寄せてこれを使用していたと証言し、証人佐藤光男は原審(二四回)で、第二露天で使用の二台の発破器のうち一台は紛失し、一台は故障して大興商事が解散するまで事務所に置いてあつた旨証言し、証人横井誠も原審(二七回)で右同様の証言をし、福士証人は当審(一五回)で、身代りに返したのは、当時六坑、三坑で使用していたもので、返した後にこわれたものが一台残つていた旨証言するので、あるいは、札幌本社から取寄せた発破器を代りに返したとも考えられなくはないが、いずれにもせよ、各証人の証言から、大興商事には六坑、三坑で共用の発破器紛失後油谷鉱業所に九三三〇号の発破器を渡すまで、前記性能の悪い発破器一台が残存していたことは明らかである。
(ハ)、ところで、検察官は、第二露天で紛失した一台の発破器は、原判決が判示するように、その第二露天で崩落により埋没したという証人の証言は横井証人を除くその余はいずれもまつたくの伝聞にすぎず、横井証人の供述も埋没の事実を現認してのものではないから、これをもつて埋没の事実を認めるに由ないというのである。しかし、横井証人は、原審で、「第二露天で主として働いていたが、三月頃右現場で乱堀の際、崩落の危険を感じ、その直前身をもつて逃れたので、発破器等持ち出す余裕はなく、しかも、その崩落の前に発破器を使用し、その置いてある場所が埋つてしまつたのであるから、当日使用した発破器が埋るところは現認しないが埋つたのは事実である。」旨証言しているのであつて、その後、それきり右発破器が発見されないこと、崩落の事実のあつたことは多くの関係証人によつて現認されていることを合せ考えると、当該発破器は埋没したとみるのがむしろ合理的である。原審(三五回)証人≪中略≫の各証言中右認定と抵触する部分は単なる推測を供述しているにすぎないし、江戸善一および小松田武雄の各供述(検調)中右認定と反する部分も崩落の事実は認めていることに徴すると、措信するに足らない。
(ニ)、かようにみてくると、大興商事に存在した三台の発破器のうち、第二露天での二台中一台が昭和二七年三月頃埋没によつて紛失したこと、六坑、三坑で共用の油谷鉱業所から借受けた証第一二九号の発破器が同年六月中旬頃、紛失(昭和二八年二月頃三坑から発見された)したことが認められる以上、第二露天に残存する一台(昭和二七年八月頃まで)大興商事に現存した)が場合によつては六坑、三坑で転用されたかどうかは考慮するまでもなく、六坑、三坑で共用の発破器が証第二一号の発破器として井尻によつて持ち出されたとの疑いを容れる余地はまつたくないものといわねばならない。
(二) 証第二一号の発破器と証第一二九号の発破器との関係
検察官は、証第二一号の発破器は、ジユラルミン製ケースであり、ナンバープレートは剥離していて、提げ革取付部分がボタン式であり、底部に円形の重り合つた鋳型らしい跡がある等外形的にも特徴(証第一二九号の発破器がやや銅色を帯びた鍍金製のケースであり、ナンバーが打込まれていて、提げ革取付部分も鈎型であるのとは明白に異なる)が存するところ、これが本件鉄道爆破一箇月前まで六坑、三坑で共用されていたものであることは疑いないとし、証人中村誠の原審(二回)での「現場で使つていた発破器はナンバープレートが無く、ケースはジユラルミンの古ぼけたような色をしており、コイルの部分は全般的に黒光りをしていた、その発破器は六月十五、六日に使つたのが最後であつた、御示しの発破器(証第二一号)が現場で使つていたものであると断言することは出来ないがこの発破器ではなかつたろうかという気持もする。」旨、証人北崎道夫の原審(一〇回)での「私は昭和二七年二月一〇日から三月末頃まで石狩土建(大興商事の前身)に勤め坑内係助手をしていた、(証第二一号の発破器を示す)見た覚えがある、提げ革の色の汚れ具合、ジユラルミン製の鋳物のような感じのすること、メーカーの書いたナンバープレートがないこと、それに全体の形から石狩土建の事務所で見た発破器と同一の物だと思う。」旨、証人浜谷博義の原審(一三回)での「坑内では発破器一台より使用したことがないが、その発破器はジユラルミンのような色をし提げ革の取付部分は、そこにボタンのようなものを引つかけて取付けられていた、ナンバープレートはとれていた、この発破器は福土係員が保安講習のため札幌に行く前日になくなつた、証第二一号の発破器の提げ革の取付部分と同じ方法で提げ革が取付けられていた、ボタンはなくなつた発破器の方が大きいように思う。」旨の各証言その他証人岩城定男が原審(一四回)で証第二一号の発破器の提げ革の取付部分がボタン式であるとか証人鷹田成樹が原審(三一回)で六坑、三坑共用の発破器に似ているというのを挙げてこれを立証しようとする。しかし、前掲各証言にしても北崎証人以外は必ずしも明確ではなく、また、北崎証人にしても、石狩土建に勤めたのは短い期間であり、ことに、当審(八回)では、前証言に較べて、証第二一号の発破器が石狩土建でみたジユラルミン製のものと同じかどうか記憶が混頓としてわからぬ、表面の感じやプレートがとれているのが似ているような気がするが、大きさ、形は一廻り小さいような気もするし、自信がないという曖昧な証言に変つている、元来、坑内で働く者が発破器を扱うにあたり、その型とか新旧の区別とか全般的な知識をもつのは格別、プレートがあつたとかなかつたとかいつたことまで一々細かく観察知覚しているものであろうかと疑われる。このことは、証第一二九号の発破器の係員であつた浜谷証人や鷹田証人さえ、前掲のような証言をしており、ことに鷹田証人が原審(31・5・11尋問調書)で、「見たことがあります、(この時検察官において後に取調を請求する発破器―証第一二九号に該当―を示した)、この発破器の一五三五九という番号は油谷鉱業所から借りていた発破器の番号です、この発破器は番号が同じだから大興商事で見たことがある筈ですが、番号を抜きにして形だけから考えますと、発破器というものは皆同じ形をしたものですから判然したことは申上げられません。」旨証言していることによつてもうかがえる。かように、発破器のこまかな特徴の記憶というものが、いかに不正確なものであるかが明らかとなつてみると、証人の証言によつて証第二一号の発破器が昭和二七年六月中旬頃六坑、三坑で共用されていたか否かを断定するには、その頃、同じ場所附近で紛失した証第一二九号の発破器が前記のように発見され、しかも、中村誠も28・5・25検調で、大興商事の現場で使用していた発破器は、下皮の止め金が鈎型のもので、前に示されたメツキのはげた真鋳色の角型の発破器と全般の感じが似ている旨あたかも証第一二九号の発破器の特徴と符合する供述をしていることもある以上、各証人に両者を示して比較検討させてこそ、より公正な判断が期待される。この意味で、証第一二九号の発破器は証第二一号の発破器との関係において証拠上極めて重要な存在価値を有するものとされなければならない。しかるに、証第一二九号の発破器については、原審終結間際まで何故か検察官からの証拠調の請求がなく、従つてまた検察官挙示の前掲各証人には証第二一号の発破器だけが示され、証第一二九号の発破器は示される機会がなかつたものである。そして、浜谷証人は、当審(一一回)で、両者を示されての尋問に対して、証第二一号の発破器はみたことがない、六坑で使つていたのは証第一二九号の発破器であることを明確に証言するに至つている。このことからも、検察官主張の事実に添う前掲各証人の証言は信用し得ない。
従つて、昭和二七年六月中旬頃三坑附近で紛失した六坑、三坑共用の発破器は証第二一号であつて、証第一二九号でないとする検察官の主張は理由がないものと断ぜざるを得ない。
(三) 当審で新にされた事実と証第二一号の発破器の経路
(イ)、この発破器の関係で当審ではさらにつぎの事実が明白となつた。すなわち、証第二一号の発破器は、昭和二七年六月中旬頃以前に猿山洋一によつて、すでに窃取されていたものであつて、その番号は八七五〇であり、猿山から高橋鉄男、さらに亜東組にわたり、それからさき遺留品として発見押収されるまでの経路が不明な点である。まず、猿山が昭和二六年一一月頃油谷鉱業所二坑三片火薬置場から八七五〇の発破器一台を窃取し、その頃、高橋鉄男に売却方を依頼し、同人が油谷鉱業所下請の亜東組の石井清に売却したということについては、証第一三六号の二の関係部分、とくに、猿山洋一、高橋鉄男、石井清の各検察官に対する供述調書、塩谷猛、米沢俊美作成の各盗難被害顛末書によつて認めるに足りる。つぎに、当審(三一回)証人田畠義盛の証言をこまかに検討し、猿山の前掲調書の記載、証第一三八号電気機器故障及受付修理状況記入簿、前掲盗難被害始末書の各記載を合せ考えると、猿山が窃取した発破器は証第二一号で番号八七五〇であることを認めることができる。そして、右窃盗の事実から当局としては、その頃すでに証等二一号の発破器が八七五〇であつて、証第一二九号の一五三五九ではないことの確信のもとに、猿山、高橋、亜東組の線をたどつて、あらゆる捜査を続けたが、昭和二七年末に至るも、証第二一号の発破器の行方がわからず、その後においてもその処分先が不明のままになつていることを田畠証人の前掲証言≪中略≫の各証言によつて優に認めることができる。
(ロ)、右のような事実の判明は、被告人や井尻と証第二一号の発破器との関係について、その解明に極めて重大な影響をもたらすものといわねばならない。少くとも、検察官が原審で論告し、当審で維持しようとしていたところの猿山洋一窃取の賍品(発破器)はその処分先から発見されて明瞭となつたとの点は、否定せざるを得ないし、さらには、井尻が被告人と共謀して大興商事所有の発破器を窃取したとする検察官主張の従来の本件窃盗の公訴事実をどうみるかについても問題を生ずるところである。
(ハ)、ここにおいて、検察官は、当審(三二回、三三回)公判で、猿山が窃取した発破器は証第二一号の発破器であることを確認したうえで、発破器が本件鉄道爆破事件の発生前大興商事の作業現場にあつたという事実関係には変りはないから、その所有帰属の関係如何は、訴因を変更しなくても、他人の物を窃取したという事実に何等矛盾はしないと主張するに至つた。その趣旨とするところは、田畠証人が、当審(三一回)で、どういう経路を辿つて右発破器が井尻等のところに行つたかということはわからないが、同じ油谷炭鉱の中であり、まわりまわつて行つたのではないかと思う旨証言していることからみても、亜東組と大興商事とは同じ油谷鉱業所の下請会社であるため、亜東組から大興商事へ行く可能性もあり得るというに帰するものと推断される。
(ニ)、しかしながら、それは単なる推測であつて、めぐりめぐつたにせよ、大興商事で証第二一号の発破器を使用していたということの確証はない。井尻や石塚が入手したと供述するところも、その入手の発破器は大興商事が油谷鉱業所から借りて、六坑、三坑で共用していたことを前提としているものであつて、このことは同人等に対してなされた多くの供述調書自体に徴して明らかである。しかも、炭坑における発破器はその保管責任者によつて管理され、紛失等の事故は必ず報告される形式がとられていることも記録上明らかであるから、一旦、大興商事に発破器が受入れられることがあれば、当然その管理に属することとなり、その入手のことは管理者によつて容易に知るところといえる。これに加えて、田畠証人の証言によつてうかがわれる証第二一号の発破器の捜査の過程からも、大興商事における発破器の異同関係は十分捜査をつくされたにもかかわらず、証第二一号の発破器は亜東組から先はついに不明に終つたものというほかはない。かようにみてくると、証第二一号の発破器がその猿山から窃み出されてから後、大興商事の作業現場にわたつたと疑う余地はなく、その可能性もほとんど認められない。すなわち、証第二一号の発破器は、被告人はもとより井尻においても何等関知しないものと断ぜざるを得ない。顧みて、検察官は、本件鉄道爆破事件の重要な証拠物件たる証第二一号の発破器関係についての前掲証拠書類を何故当初から事の真相解明に役立てようとしなかつたのか、証第一二九号の発破器提出の遅延と相俟つて、当裁判所としては、まことに遺憾を禁じ得ないこととするところである。
六、証第一〇号の電気雷管五本その他の遺留品について
検察官は、証第一〇号の電気雷管五本は、本件鉄道爆破現場の東方三、四百米を距てた山脇源次郎所有地の「よもぎ」叢中にダイナマイトに挿入されたままで遺留されていたのを昭和二七年八月四日発見押収したものであり、本件鉄道爆破の犯行者が犯行直後、すなわち、同年七月二九日夜右発見場所に遺棄していたものであると主張し、原判決もまたその証拠説明中井尻について同旨の認定をしている。これに対し、弁護人は、右雷管五本は所論日時場所で発見押収された遺留品の雷管と同一の雷管ではなく、かりにそうでないとしても、本件鉄道爆破とはまつたく無関係なものであると主張(弁護人の当審弁論要旨をも含む)するので、その理由とするところについて以下検討を加える。
甲 証第一〇号の雷管五本は八月四日発見押収されたものとは異なる雷管か
(一) 発見当時における雷管の色合等
原判決挙示の証拠によつても、検察官所論日時場所において、新白梅印ダイナマイト各五本にそれぞれ各一本ずつ挿入された電気雷管計五本が遺留されているのが発見押収されたことは明らかである。そして、右遺留品の電気雷管五本が発見現場から芦別町警察署へ持ち帰えられたことおよびそれが同署においてその日直ちに点検見分されたことは、原審証人芦原吉徳、同打田清の各証言によつても、また、事理上からも明らかなところといえる。ところで、芦原証人は、原審で、右発見の日に雷管はダイナマイトから抜いて保管したが、抜いた雷管の色合は非常に光つて新しいもので、管体に刻んであつた「5」という数字が五本とも肉眼でみることができ、腐蝕してはいなかつた旨供述し、打田証人も、その原審29・9・22尋問調書で、「雷管をダイナマイトから抜いた後五本揃つているのを最初にみたのは、それを発見した日の晩である。」旨供述しているのに対し、証人藤田良美は、原審(五七回)で、「その晩(外はまだ薄明い頃)芦原捜査課長の指示により右遺留品のうち雷管が挿入されたままのダイナマイト一本と発破器を持つて捜査のため中田部長等とともにキヤリヤーで油谷鉱業所へ行く途中、その動揺がはげしく危険を感じたので、中田部長に相談して、ダイナマイトから雷管を抜き出そうとして、その脚線を引いたところ、脚線だけが取れて雷管は簡単に抜けなかつたので、ダイナマイトに指先を差込んで今度は簡単に引抜くことができた。」旨、また、原審31・3・29尋問調書において、「脚線は切れたのではなく、雷管の脚線取付の部分からスポツと抜けてきたのであつて、その抜けた先端附近には硫黄がついており、引抜いた雷管は、右脚線の抜けた部分附近が腐蝕して緑青の塊のようになつていて、ボロボロと欠け落ちたが、管体は全体として黒ずんでおり、光つてはいなかつたし、また緑青もふいてはいなかつた。」旨各供述している。弁護人は、これを捉えて、同じ日時に遺留品である同一の雷管を現認した前記芦原、打田両証人と藤田証人との供述の矛盾は科学上からも、また常識からも認めることのできないところであり、このことは、芦原、打田両証人のいわゆるいずれも新品に近い完全な雷管としての外観を呈していた五本の雷管一組と藤田証人のいわゆる管体の一部が欠け落ちる程度に腐蝕しているものを含む五本の雷管一組との二組の雷管の存在することを考えないかぎり解明し得ないところであるというのである。しかし、証人好田政一も原審(三四回)、当審(二五回)で、発見二、三日後遺留品の雷管五本をみたが、にぶい赤銅色をしており緑青はふいていなかつた、感じでは新しいものに近かつた旨供述しており、これに藤田証人がみたという雷管は、薄暮車の中でたまたまダイナマイトから抜き出した一本にすぎないことを合せ考えると、同証人の供述中雷管から脚線が抜けたことは認められるが、色合や腐蝕の点についてまで正確に把握して述べたものとは認められない。従つて、右色合等の相異だけからは証第一〇号の雷管五本が遺留品の雷管と同一でないともなし難い。
(二) 雷管の管体に刻まれた「5」の数字
証第一〇号の雷管五本の各管体に算用数字の「5」が刻まれていることは明らかである。そして、その数字が油谷鉱業所火薬取扱所係員高橋為男の筆跡と近似していることは原審鑑定人金丸吉雄作成の鑑定書(証拠(112))によつて認められる。弁護人は、証第一〇号の雷管については遺留品として発見された当時これに「5」の数字が刻書されていたことを写真等により正確に保存されていないのであるから、ただ、押収された当時、遺留品の雷管に刻書された数字「5」をみたことがあるとか、あるいは高橋為男の刻書したものに似ているとかの証言だけから、証第一〇号の雷管が遺留品の雷管と同一であるとするに由ないというのであるが、しかし、遺留品の雷管に刻まれた数字「5」の発見がそもそも当初からの一つの手がかりとして本件捜査が進められていた事実は警察員作成の昭和二七年八月四日付領置調書の押収品目録中に雷管五本に「5」の数字の刻んであることが添記されていること、ならびに前掲芦原証人等の各証言によつて明らかであることに加え、これに刻まれた「5」の数字について、その発見押収の当時、間もない頃、高橋為男は、警察の取調べにおいて拡大鏡を用いて、遺留品の雷管を見分させられ、その結果自己の筆跡に間違いないことを確認したことを供述(証拠(102)、原審三三回公判)していることを合せ考えると、証第一〇号の雷管の数字「5」についての原状が保存されていないことの故をもつて、直ちに遺留品との同一性を否定し難い。
(三) 遺留品の雷管は斉藤満由が預り保管中に失われたか
弁護人は、遺留品の雷管は斉藤満由が打田巡査から預かつて保管中紛失したものであると主張する。なるほど、斉藤満由は、原審29・9・17尋問調書では、打田巡査から腐蝕の甚だしい雷管五本一組を預つて火薬庫の寒暖計をかける釘にかけておいたが、昭和二九年二月上旬頃以後紛失した旨供述しているものの原審(二〇回)では、「依頼されていた雷管五本はダイナマイトとともに昭和二八年七月四日に埋没処分した。」旨証言し、原審(二八回)では、「ダイナマイトの埋没処分をするまでは五本の雷管(火薬保管証に記載の雷管を指す)は預らなかつたのであつて、その預つたのは、右ダイナマイトを埋没処分した七月四日に火薬庫の前で打田から渡された腐蝕の甚だしい雷管である。」旨証言し、当審(一四回)では、一方では新聞紙でくるんだ変質程度の悪くない雷管をダイナマイトとともに預つたようにいい、一方では預らなかつたようにいい、そして、七月四日に打田が紙にくるんで服の物入れから出したものと思うが腐蝕して原型をとどめないような雷管を出して火薬庫の前で写真をとつたが、同人から預けられたのはダイナマイト消却の最中であつた旨証言しているのに対し、証人打田清は、原審および当審を通じて、一貫して、雷管五本の保管を斉藤に依頼したことはない旨、ことに、右ダイナマイト消却に際し遺留品の雷管を持参して参考資料にするための写真撮影はしたが、右雷管を渡すことなく持ち帰えつたことを証言しているのに徴すると、斉藤の証言はそのまま信用することができない。もつとも、打田巡査が斉藤に交付した前掲保管証や斉藤に命じて同人から交付を受けた保管爆薬の消却状況についてと題する書面ならびに証第八〇号の火工品保管書には、事実に即しない記載があり、その杜撰な措置から疑惑を招くに至つたとはいえ、そのため、打田が斉藤に遺留品の雷管五本を渡したものとは認められないことも、打田証人および芦原証人の原審ならびに当審での各証言に徴して明らかである。
(四) 証第一〇号の雷管は油谷鉱業所から借り受けた雷管か
芦原証人が当審(一九回)で、本件鉄道爆破発生一箇月位後の頃、遺留品の雷管の筆跡との対照資料として油谷鉱業所から「5」の数字の刻まれた雷管五本か一〇本位借りてきたが、これによつて、遺留品の雷管に刻まれた「5」の数字は高橋為男の筆跡であることが判明したので、借り受けてから一両日後に返し、とくにその領置手続はとらなかつた旨供述するところから、ここにまた、弁護人の疑いを招いている。すなわち、弁護人は、後に改めて筆跡鑑定を要する程の証第一〇号の雷管の数字「5」との対照資料となつた右借り受けの雷管は、またきわめて重要な証拠物件であるにもかかわらず、これにつき書類上何等の手続もなされていないのは不自然であり、かえつて借り受けた雷管は返却しなかつたともみられるものと主張する。しかし、当審(二四回)証人国久松太郎は、「昭和二七年八、九月頃、警察の方が油谷鉱業所にみえて、電気雷管をみせてくれということで、確か算用数字「5」の雷管一〇本か一五本渡したが、貸してくれということで、持つて行つて、その日に返されたか次の日に返えされたかははつきり記憶していないけれども返されたように思う。」旨証言しているところもあつて、弁護人主張の手続を践まなかつたのは、杜撰のそしりをまぬがれないとしても、そのことから、借り受けた雷管を油谷鉱業所へそのまま返却しなかつたものとも解されない。
(五) 雷管の形状が変つたのは腐蝕か人為的か
遺留品として発見押収された当時の雷管五本についての色合、腐蝕の度合等について、多少の相違のあつたことは、すでにみてきたとおりであるが、同所に掲げた芦原、打田の両証人その他の証人の証言に徴すると、右雷管は、当初証第一〇号の五のような形状(脚線付)を有していたものであつたことを認め得る。しかるに、原審に顕出された右雷管についてみるに、証第一〇号の五の一本を残した他の一ないし四の四本はいずれも脚線がとれて管体に結びつけてあり、その脚線の附着していた管頭部分も欠損し、水平に切断された状態でゴムの面を露呈しており、管体の長さも、証第一〇号の五よりも短かくなつているのを明認し得る。弁護人は、かような欠損は、遺留品の雷管が腐蝕したことにより自然的に生じたものではなく、これとは異なる雷管に人為的になされたことによるものであると主張する。そこで按ずるに、証第一〇号の一ないし四のうち、いずれか一本の雷管の脚線のとれたのはその発見当夜であることは藤田証人の証言によつてうなずけるところであるが、他の三本の脚線がいついかようにしてとれたかについてはもとより、その欠損部分が生ずるに至るまでの保管状況については、右雷管の取扱上この点の注意がなされていないため、確定するに由ない。しかし、打田証人(その保管にあたる)や好田証人の前掲証言によつて、証第一〇号の雷管は、その保管中管頭部分がとれるような状態であつたことや捜査上の必要から一旦ダイナマイトから抜き出されてはまた挿入するということもあつて、脚線がとれたりあるいは腐蝕状態の進んでくることの合理性は否定し得ない。従つて、好田証人が当審(二五回)で、昭和二八年四月頃本格的に捜査を命ぜられた頃にみた右雷管は、うち二、三本は脚線がとれて、緑青がふいていたが、長さには異常がなかつた旨証言し、打田証人も当審(一二回)で、時期ははつきりしないが、出し入れのとき頭がとれていた旨証言しているのはうなずけるところである。そして、証人久保由雄の原審31・3・29尋問調書や証第一二八号の写真によると、証第一〇号の一ないし四は、昭和二八年一〇月四日頃証第一〇号の五よりも短かくなつていて、その部分は、刃物できつたようにスポツとした綺麗なものではなく、腐蝕した残骸のようなものが少しずつ付いていたことが認められる。してみると、証第一〇号の一ないし四の雷管は、その脚線が昭和二八年四月頃までに二、三本とれ、同年一〇月初旬頃においては、右認定の程度に腐蝕していたものとしなければならないが、しかし、右程度の腐蝕から四本とも一様に鋭利な刃物で切断されたように変異することは、単に腐蝕進行の結果によるとするには、常識上いささか納得し難く、これを原審および当審証人大友董ならびに当審鑑定人大友董の鑑定の結果に徴して考えると、右証第一〇号の一ないし四の形状の変異は、腐蝕によるものではなく、人為的によるものといわざるを得ない。検察官は、大友鑑定の結果によつて雷管のゴム部分が明らかとなつたことから、管体の外部からはみることを得ないゴム部分の上面をことさら切断するということは可能のかぎりでないとし、原審(三三回)証人高橋為男が「証第一〇号の一ないし四の形状の変異は腐蝕によるものと思う、腐蝕によつても切断したように綺麗にとれると思う。」旨証言するのを挙げて、右欠損が人為的切断によるものではないことを極力主張するものであるが、証第一〇号の一ないし四は、すでにある程度腐蝕していることからも、純然たる新しいものに比し、ゴム部分は外部からでも必ずしも推定し得なくはないこともうかがわれるし、また、高橋証人の証言は、前掲証拠が実験的科学的根拠をもつのに較べて措信し難いので、検察官の右主張は採用しない。しかしながら、証第一〇号の一ないし四が同号の五と元来同一形状のものであることは、大友証人の証言によつても明らかであるから、その人為的変改が何が故に施され、かつ、それによつて、その証拠価値がどのように評価されるかはともかくとして、これをもつて、右証拠物件が遺留品として発見押収された雷管と異なるものとすることもできない。
乙 証第一〇号の雷管五本その他の遺留品は本件鉄道爆破事件とは無関係か
(一)、そこで、検察官所論のように、証第一〇号の雷管が本件鉄道爆破当夜被告人や井尻等によつて所論場所に遺棄されたとすると、芦原証人や打田証人の当審での各証言によるも、右当夜以降右遺留品の発見された同年八月四日までの間に、右場所附近では断続的な降雨があつたことが認められるので、かかる気象条件の下に、しかも、新白梅印ダイナマイトに各挿入された状態のままに置かれていた証第一〇号の雷管の腐蝕程度は、果してどのようなものであつたかが当然問題とされなければならない。しかるに、現存する証第一〇号の雷管は事件後十余年を経て当然外観も変貌し、とくに前述したようにうち四本は人為的に切断された形跡を示しているので、現存するその状態からは当時の腐蝕程度を推知することができない。そこで、このため、とくに雷管の腐蝕に関する鑑定を命ずることとなつた当審における大友鑑定人の鑑定の結果に徴すると、証第一〇号の雷管と同種の雷管が新白梅印ダイナマイトに七日間挿入していた場合、その雷管の腐蝕は、証第一四三号の二の雷管の程度の腐蝕状態を呈し、雷管の管頭部の腐蝕は、とくに甚だしいことを認め得る。従つて、証第一〇号の雷管が本件鉄道爆破のあつた昭和二七年七月二九日から翌月四日夕方まで新白梅印ダイナマイトに挿入されていたとすれば、その腐蝕状態は右証第一四三号の二の雷管の腐蝕状態にほぼ近いものであるべきものといわなければならない。しかるに、芦原証人は、当審(三六回)で、証第一四三号の一ないし四を比較して、発見当夜現認した雷管は同上号の一の雷管に近い旨証言し、好田証人は、当審(三七回)で、同上号の一ないし八を比較して、遺留品の雷管を一番最初にみたときの状態は緑青はまだふいていなかつたように思うが、しいて似ているのを探すと、同上号の一の腐蝕程度に近い状態だつたと思う、同上号の二ないし七(一週間ないし二箇月挿入の雷管)のような状態では絶対になかつた旨証言するのであつて、同証人等が証第一〇号の発見当時現認した状況に近いものとしてその指示する雷管は、いずれも、二四時間ダイナマイトに挿入されていた雷管で、緑青は管体全体にはなく、管頭部の方と管底下附近にうつすらあるにすぎず、管体としての完全な外観を呈しているものであることを知ることができる。してみると、検察官主張の戸外における腐蝕の厳密な再現は容易でないことを十分考慮に容れても、なお、証第一〇号の雷管五本は、遺留品として発見された日すなわち昭和二七年八月四日の直前頃というのであれば格別、それより遡及した本件鉄道爆破発生の当夜に「よもぎ」叢生中に遺留されたものとは到底推断し得ない。(原審鑑定人山本裕徳尋問調書中昭和二七年八月頃一週間位ダイナマイトに雷管が挿入されていたとして、その後雷管からダイナマイトの成分を拭い去つても拭い去らなくても、又保管の方法がどうあつても極端な保管方法を採らないかぎり現在のような状態を保つことができる旨および降雨にあつたとしても結論に変らない旨の鑑定供述部分は雷管抜取後のことをいうものと解されるが、証第一〇号の雷管を一週間位ダイナマイトに挿入していても現在のような状態を保つというのであれば前掲鑑定の結果が科学的実験にもとずいて実証されているのに較べて単なる仮定にすぎないものとせざるを得ない。)してみると、証第一〇号の雷管五本が本件鉄道爆破と関係を有するものであるかは極めて疑わしいものと認めざるを得ない。
(二)、もつとも、(イ)本件鉄道爆破現場から発見の証第三三号の緑色被覆銅線と遺留品の証第一六号の緑色被覆電話線とは警察技官新保四十男鑑定書(証拠(91))、鑑定嘱託についてと題する書面(証拠(92))により同質のものと認められ、また、(ロ)右爆破現場から発見の証第二号の紙片と遺留品の証第一九号のボール紙箱(発見当時新白梅印ダイナマイト一六本在中)とが警部久保由雄鑑定書(証拠(95))により各同質のもので、かつ、一部、全部の関係において符合するものであることが認められる。従つて、この事実、とくに右(ロ)の符合の点を重視すれば、右(イ)および(ロ)の右遺留品はもとより、同時に発見された前記雷管(証第一〇)号を含め、その他発破器(証第二一号)、同ハンドル(証第二二号)、ダイナマイト(証第一九号)、電話線(証第一六号)等の各遺留品はすべて本件鉄道爆破と関連するとしなければならぬかの如くである。しかしながら、雷管についてはその関連性を認めがたいことすでにふれたとおりであつて、この認定を誤りとすることもできない。とすると、同じ個所の遺留品のうちで、一部(ボール紙箱紙片)は爆破と関係するかの観を呈し、別の一部(雷管)は関係しないと思料されるものが共に存するというきわめて矛盾した事態が生じることを認めなければならないが、しかもなお、右各遺留品を本件鉄道爆破に結びつけて考えるについて生じる次のような疑問、すなわち、(イ)警察技官高田善久の昭和二七年九月一五日付鑑定書(証拠(96))に徴すれば、犯人は何故遺棄しなければならない程の不要なダイナマイト、雷管を携行したのであろうか、(ロ)またその雷管は何故必要数以上に五本までもダイナマイトに装填されねばならなかつたのであろうか、(ハ)さらに、いかに叢中とはいえ、爆破現場にほど近い発見され易い場所に、リユツクサツクにもいれず(これには四寸釘一本のみ在中した)散乱した状態で、後日重要な証拠物件とされること必定の前記物件が遺棄されてあつたのであろうか、ことにそのなかの雷管五本には「5」の字が刻書されていて、容易に出所関係の手がかりを与えるものであることを犯人は全く予想もしなかつたのであろうか、等々の疑問に想到するとき、これ等遺留品が真実本件鉄道爆破と関係があると断定するには躊躇をおぼえないわけにはゆかないのである。
七、井尻の自白等について
(一)、検察官は、本件鉄道爆破事件を被告人についても認め得る証拠として井尻の公判前の自白、石塚、藤谷等が井尻から本件に関し聞知したとする内容を重視し、なお、井尻が本件鉄道爆破当夜油谷から上芦別に行き、翌朝午前六時過頃の三菱上芦別駅発混合列車で油谷に帰えつた事実を挙げている。
(二)、そこで、まず、井尻の自白について検討するに、その自白は、(1)被告人から火薬類の入手方の依頼を受けた事実、(2)右依頼により石塚を介し火薬類を入手した事実、(3)中村誠から三坑で緑色被覆電話線(発破母線)の交付を受けた事実、(4)大興商事の事務所で原田鐘悦から電気発破器用のハンドルの交付を受けた事実、(5)右(2)の火薬類および(3)の発破母線を被告人に交付した事実(以上例えば裁判官の28・9・10尋問調書)ならびに(5)発破器一台を窃取した事実(もつとも、この自白は司法警察員に対するものに過ぎない。28・5・25司法警察員調書)を認めるという趣旨のものである。しかし、これ等自白が事実にまつたく合しないか、またはその疑いがきわめて強いことはすでに説示したところから明らかである。そもそも本件捜査においては、まず藤谷が火薬等に関する重要な供述を行つた結果、この供述から石塚、中村誠等各関係者の供述が獲得され、この取調と併行して井尻の取調が行われたものであることが記録上明らかである。従つて、井尻が前記のような自白をあえてするに至つたのは、同人が原審(三九回)公判廷で述べるところから考えると、長い勾留によつてなかば諦めた形で真意に反し他の者の供述に合せたものではなかつたかと推察される。井尻の28・8・26司法警察員調書や、28・8・22司法警察員調書にあらわれている捜査官とのつぎのような問答はこの間の消息を伝えているとみられなくはない。
問 何故その様な嘘を言つたのだ。
答 私がなんぼ知らんと言つても石塚や藤谷らがいろいろな事を証言して居り私が知らんと言つても通らん。
どうせ通らんものなら何にもかも俺が背負つて罪を着て一日も早く帰へつた方が得だと思つたから。
問 何によつて昨日までの話をしたのか。
答 今まで調べられて来たのであり又石塚らが言つて居る事も聞いて来てそれに併せて話をした。(以上28・8・26司法警察員調書)
問 君は此の前涙を流してこれ以上頑張つて押通して行ける自信が無くなつたんだと云う事を自分で言つたが、これはどういう事なのか。
答 これは反証を挙げる自信が無い事です。
問 もつと深く考えればどう云う事に成るか。
答 それは諦めるという事です。
問 君の云う様に関係していなければ何も諦める必要もないしまた反証も幾等でも挙げられるんではないか。
答 あげられません。
問 どう云う訳で。
答 それを答えるだけ俺は能力は無いし周辺が斯うなつている以上はどうしようもないんです。
問 それじや暗黙の裡に関係者だと認めている様なもんだが。
答 如何に自分が弁明しても其の様な事実に成つているし反証できないから時の流れに沿つて行くより無いのです。(以上28・8・22司法警察員調書)
(二)、つぎに、石塚、藤谷等が井尻から本件に関し聞知したとする内容について検討するに、この内容とは、要するに、検察官が伝聞供述にあたらないと主張している供述、すなわち本章冒頭において摘記した(一)ないし(六)の点に関する藤谷、石塚の供述部分であるが、そのうち、(一)ないし(五)の石塚の供述部分が伝聞供述とならず、従つて証拠能力をもつものであることはすでに説示したとおりである。しかし、そのことから直ちにその証拠としての信用力まで保障さるべきものではないこともすでに触れたところなので、この点につきあらためて考察するに、本件にあつては、石塚の供述が多くの点でその信用力に疑いの存することはこれまでに検討を加えてきたとおりである。しかも、井尻から聞知したとする内容は、本件鉄道爆破計画の具体的内容、例えば、火薬を持つて鉄道爆破に行くのだ、実行に参加するのは井尻、地主、大須田、斉藤、山内等で平岸と茂尻との間で七月二九日にやるんだという趣旨(前掲検察官摘示の(一)ないし(五))のものであり、これは昭和二七年七月一二日の午前九時頃と翌一三日の午前一〇時頃の二回にわたり、井尻の部屋において聞いたというのである。しかるに、当審(四六回)証人高橋金夫の証言や証第一五六号の同人提出の日記帳の記載(その七月一一日ないし一三日付欄)によれば、同月一一日から一三日まで賃金交渉のため代表者数名が札幌本社に出向いており、その代表者のうちに井尻が含まれていることが推認され、かつ井尻自身も同月一一日頃か一二、三日頃は賃金交渉の代表者として札幌の本社に出向いていた旨公判前から屡々供述(28・9・10裁判官の尋問調書五項、28・6・4検調六項)していることに鑑みれば、石塚の供述には多少の日時の記憶ちがいもあろうとする検察官の所論(再弁論要旨)を考慮に容れても、まず日時の点で石塚の供述には疑いをさしはさまざるを得ない。のみならず、おおよそ、鉄道爆破という極秘にすべき重大な事実をいかに仕事上の仲間とはいえ、しかも飲酒後(石塚の28・5・21検調によれば、一二日井尻から前記の話を聞いたとき、井尻は酒を飲んでいて赤くなつていたというのである。)軽々しく洩らすものであろうか、また石塚の聞知したこと、従つてまた井尻の告白が事実とすれば、そのなかに出てきた山内、大須田等は被告人とまつたく同一の立場におかれているのに、被告人を除くその余の山内、大須田等が不問にされたのは何故であろうか等の点をも加えて彼此勘案すると、井尻から本件に関し聞知したとする石塚の前掲供述部分は到底信用力を認めるに由ないものといわなければならない。なお、七夕の晩、藤谷(検察官摘示にかかる前掲(六))、石塚が井尻から聞知したとする供述部分も、それは伝聞供述であるのみならず、右に説示したと同様の理由でこれまた信用力をもち得ないものである。藤谷、石塚は、後日公判廷において井尻から聞知したとする右各供述部分についてこれを全面的に否認し、何とか早く釈放されたいため、取調官からの助言もあつて、嘘のこととは知りつつも前記のような供述をするに至つたと説明しているのであるが、これはおそらく単なる弁解とも思われない。このように、井尻から聞知したとする藤谷、石塚の前記各供述部分は、これを採つてもつて、被告人に対する火薬類を用いての本件鉄道爆破事件認定の証拠とすることはできないものというべきである。
(三)、一方、井尻の本件鉄道爆破事件翌日の行動についてであるが、岩城雪春の供述(証拠(171))、米森順治の供述(28・9・16検調)や井尻の右事件当夜のアリバイが否定されている点に徴すると、検察官主張のこの点に関する事実は一応認められなくはない。しかし、そうとしても、右事実をもつて、井尻が本件鉄道爆破に関係があるものともいえないことは、すでに判断したところからおのずから明らかといわなければならないので、このことから、論旨のように、本件鉄道爆破事件を被告人に関連付け得るものとも到底なし得ない。
八、山脇代美子の供述
検察官は、被告人によく似た男が本件鉄道爆破の二日位前に本件爆破現場附近を徘徊していたことが認められる事実を挙げ、原判決もまた、原審証人山脇代美子の供述(証拠(183))によつて右事実を認定しているので以下これについて検討して行くこととする。
山脇証人が被告人によく似た男の容貌、服装等について供述(証拠(183))するところは、その男の顔色は一般農夫に比べて青白く、眉毛が濃く、目と眉毛との間が近くて、目は大きい方で、戦闘帽か炭坑帽を冠つていて、国防色の上衣を着ており、背中には背巾よりやや狭いリユツクサツクを背負つていたというのであり、同証人の当審(三回、三四回)での各供述もおおむね右と同様である。しかしながら、当審でなした昭和三六年九月二一日の右目撃附近現場検証の結果ならびに当審(三四回)における同証人の証言によつて確認される同証人が被告人に似た男をみたという距離が五、六間であることからみて、水田で草とりに専念していた同証人において、「草を踏むざわざわする音に顔を上げてみたらその人が立つていた」というその人物の顔の細かい点まで、その証言するように明確に見分け得て、しかも、相当長い期間までも記憶にとどめて置けるものであろうかがまず疑問となる。
当審で弁護人の請求により刑事訴訟法三二八条の証拠として証拠調のされた昭和二七年八月二四日付検察官の検証調書中の山脇代美子の供述部分によれば、同証人は、検証の立会人として検察官に対し「爆破のあつた前日である本年七月二八日午後六時頃自宅附近の畑に居りましたところ麦藁帽子を覆つた一人の男の人が私の方で作つている燕麦畑附近の水田の畦道を通つて私宅の方に来るのを見た旨供述した。」ことの記載がある。
同証人のかような供述は、同証人が本件遺留品の最初の発見者ではあり、その発見に至る前後の間に見知らぬ人が附近を徘徊していたかどうかを当然聞かれたことについて供述したものというほかはなく、しかも、右供述は、本件鉄道爆破の犯行者を捜査する有力な手掛とならぬともかぎらないものであるから、さらに進んで、よりくわしい具体的な取調が同証人についてなされた筈である(当審二〇回証人芦原吉徳も一応これを認めている)。
しかるに、山脇証人は、右検察官の前記検証に際してはもとより、また警察員の取調に際しても、原審および当審で供述しているような戦闘帽か炭坑帽を冠り、リユツクサツクを背負つた男が本件遺留品発見現場附近に立つているのをみたという供述をした形跡がない。かような供述をするに至つたのは、原審(二〇回)においてであり、しかもそれは、同証人が原審(三回)に証人として出頭し、被告人をみた途端に、本件鉄道爆破二、三日前にみた前記炭坑帽のような帽子を冠つた男のことが記憶によみがえつたと供述するのである。そして、その男は、蕗を採りにきた人であれば、一生懸命採らなければならないのに、一寸下をみる程度であつたので特に印象に残つたという(当審三回)。しかしながら、もし、そのようにとくに印象に残つたのであるとすれば、附近に見知らぬ人が徘徊したのを目撃したかどうかについて聞かれた場合、まず、この男について供述するのが自然のように思われるのにこのことなく、検察官の検証の際は麦藁帽を冠つた男といい、当審(三四回)では、麦藁帽を冠つた男はみたこともなく、前記検察官の検証調書記載のような供述をした記憶もないといい、さらに、当初は附近で見知らぬ人をみかけたのは右の男一人であるといいながら、後ではその二、三〇分前にやはり国防色に近い服装のリユツクサツクを背負つた男が水田の水おちから五〇米位離れた畦道を通つているのをみかけたが、被告人に似た男と同一人であつたかどうか判然しないとも供述するに至つている。
もともと、本件鉄道爆破前日頃自宅附近の畑で一人の男を目撃したとの山脇証人の供述については、捜査官としては、当初はともかく結局においてさして重きをおかなかつたものと推察される。このことは、被告人その他本件鉄道爆破事件関係者の取調に際し一度も面通し等によつて右供述を確認する措置をとつていないことによつても十分うかがい知れるところである。そして、同証人の前記したような目撃状況やその想起力、供述の不統一等を考えると、果してその目撃した人物を被告人によく似た男と認め得たものかどうか裁判所としては甚だ懐疑的たらざるを得ない。
以上本章の一以下に詳述したところを要約すれば、まず本件鉄道爆破に不可欠のダイナマイト、雷管等の火薬類を井尻および被告人等が入手したとの点が否定され(本章の一および二)、つぎに本件における最も重要な物的証拠となつた爆破現場附近の遺留品中とくに発破器、同ハンドル等と被告人等との結びつきの点が切断され(同三ないし五)、他面さらに右の遺留品がそもそも本件鉄道爆破と無関係の疑いすら存し(同六の乙)、しかも爆破現場附近で被告人らしい男を目撃したとの山脇証言も信用力に乏しいこと(同八)となると、本件鉄道爆破は井尻および被告人等の所為であるとして検察官がその挙示の証拠にもとずいて構成した事実の根幹は崩れ去る次第であつて、被告人に対して本件鉄道爆破事件の成立を認めることはできないものと判断せざるを得ない。
されば、被告人に対し本件鉄道爆破事件につき無罪を言渡した原判決には、前説示伝聞法則の違反があるにしても、それは判決に明らかな影響をおよぼすものではなく、何等検察官所論のような事実誤認もないものというべきであるから、検察官の控訴趣意第一点は理由がない。
第三章 検察官の控訴趣意第二点の論旨について
所論は、本件窃盗の公訴事実に対し被告人を無罪とした原判決には証拠の取捨選択を誤り事実を誤認した違法があるというものであるが、しかし、本件公訴事実の客体たる発破器は何等被告人の関知しないものであること前章において説示したとおりであるから、本件公訴事実に対する原判決の判断はその過程において容れ得ない点もあるが、無罪としたその結論において正当というべきであるから、この点の論旨も理由がない。
第四章 弁護人の控訴趣意第二の二および被告人の控訴趣意第一点の四の各論旨について
各所論は、原判示第三の事実を否認し、その誤認を主張する。この点については、被告人が井尻と共謀して同判示日時場所において同判示火薬類を所持したことを認めるに由ないこと第二章説示のとおりであるから、被告人に対し右火薬類取締法違反の事実を認めた原判決には判決に影響をおよぼすことの明らかな事実誤認があるものというべく、従つて、弁護人のその余の控訴趣意についての判断を俟つまでもなく、この点に関する原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。
第三、結論
以上説明したところによつて明らかなように、結局、検察官の本件控訴は理由がないから刑事訴訟法三九六条によりこれを棄却することとし、被告人の本件控訴は理由があるから同法三九七条により原判決中被告人に関する有罪部分を破棄し、同法四〇〇条但書に従い、さらにつぎのとおり自判することとする。
本件火薬類取締法違反の公訴事実は、被告人は井尻と共謀の上法定の除外事由がないのに昭和二七年七月頃芦別市字旭所在の油谷芦別鉱業所附近に当時あつた大興商事株式会社第二寮(俗称井尻飯場)等において火薬類である新白梅印一一二・五瓦ダイナマイト二〇本入三箱位及び電気雷管十数本位を所持したものであるというにあるが、前説示によつてその犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条、四〇四条に則り被告人に対し無罪を言渡すこととする。
よつて、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 矢部孝 裁判官 中村義正 裁判官 萩原太郎)
<以下省略>